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おしえて!カールさん

絵や絵本づくりについて

カールさんについて

絵本作品について

絵本をつくるときは、お話から書きますか?
それとも、絵から?

 私の場合、絵を描くにはお話が必要だし、お話を書くには絵が必要なんだ。あるとき、私のことを“Picture Writer”(絵でかく作家)と呼んだ子がいたけれど、これはいい呼び方だね。でも、いちばんはじめに思いつくのは、アイデアなんだ。

 絵本をつくるときは、ダミーづくりからはじめる。ダミーというのは、8枚の大きな紙を折ってホッチキスでとめてつくる、32ページの真っ白な本ののようなもののこと。それに、アイデアを描いていく。絵とお話が「これでよし」と思えるようになるまで、何度も何度もダミーをつくる。これはとてもたいへんな作業なので、きちんと信念をもってやらなくちゃならない。

 絵本をつくりはじめるときは、とても楽しい。でもしばらくすると、それは「仕事」になる。そして、だんだん「労働」になっていく。終わるころには、自分が奴隷になったような気分にすらなる。描きおえた絵を出版社に送りだしたあとは、なんだか悲しくなるけれど、できあがった絵本を見ると、またうれしくなるよ。

カールさんは、どうやって絵を描いているんですか?

 「コラージュ(貼り絵)」という方法だよ。これは、私が発明した方法でもなんでもなくて、ピカソやマティス、レオ・レオーニ、エズラ・ジャック・キーツなど、いろいろな画家がやっている。みんなも、学校や家でつくったことがあるんじゃないかな?「やあ、これならできるよ!」といってくれた子どもたちもいる。これは、私には最高のほめことばだよ。

 まず、半透明の薄紙に、アクリル絵の具でいろんな色をぬることからはじめる。太い筆でぬったり、細い筆をつかったり、まっすぐな線をひいたり、波みたいにうねらせたり。指で描くこともある。カーペットの切れはしやスポンジ、麻布なんかをスタンプのようにおして、ちがった質感を出したりもするよ。

 できあがった薄紙は、いってみれば私のパレットなんだ。絵の具がかわいたら、色別にひきだしにしまっておく。そして、「あおむしをつくろうかなあ」と思うと、まず赤い薄紙をまるく切りぬいて頭をつくり、緑色の薄紙をだ円形に切りぬいて体をつくる。それらを、壁紙用ののりで、イラストボードに貼っていく。

 “Picture Writer : The Art of the Picture Book”というDVDでは、もっとくわしく説明しているよ。たくさんの子どもたちや先生方がこれを見て、自分なりの薄紙をつくって絵を描いてくれている。みんなもぜひやってみてほしい。まわりがよごれてしまうかもしれないけど、すごく楽しいから。
(注:“Picture Writer : The Art of the Picture Book”というDVDは、エリック・カール美術館のオンラインストアで購入できます。また、くわしい薄紙の作り方は、このサイトの「創作のひみつ」で説明しています。)

 世界中には、すばらしい絵がたくさんある。ピカソやマティス、クレー、ブリューゲル、レジェなど、いろんな画家のことが知りたくなったら、美術館に行ったり、画集を見たりしてごらん。

一冊の本をつくるのに、どれくらい時間がかかりますか?

 すべては、アイデア、想像、ひらめきからはじまるんだ。
 そういうものはどこからくるかって? おとうさんやおかあさんからかもしれないし、先生かもしれないし、そのときの気持ちや環境、経験、夢、好きなもの、きらいなもの、いままで見たもの、きいたもの、自分の望みからかもしれない。なんでも、お話を思いつくきっかけになるんだ。

 アイデアを思いついたら、すわって、紙に描いてみる。それがうまくいきそうだと思ったら、32ページのダミーにストーリーをかいていく。

 さあ、これではじまったよ。
 いつ終わるかって?
 思いついたアイデアがどんどんひろがっていくこともあるけれど、そうじゃない場合もある。長いあいだ集中できるときもあるし、単にあっちこっちをちょんちょんつついているだけのこともある。いらいらして、せっかく描いたものを、ひきだしや箱にほうりこんでしまうこともあるかもしれない。(私にも、そういう箱がいくつもあるよ。)
 こういう作業はみんな、時間がかかる。それに、仕事がおくれるのには、ほかにもいろいろな理由がある。お客さんがなかなか帰ってくれなかったり、車の修理をしなくちゃいけなかったり、歯医者に行かなきゃいけなかったり。こうして時間はどんどんすぎていく。
 え? 質問の答えはどうしたかって? うーん、じつをいうと、むずかしくて答えられないんだ。

 ふたつの例を見てみよう。
 『ね、ぼくのともだちになって!』ができるまでには、2年以上かかった。といっても、ずっとそればかりやっていたわけじゃないよ。あるときは描いていてとても楽しかったんだけれど、つぎの日になると、「このお話で本当にいいのかな」なんて考えてしまってね。そういうときは、せっかくのアイディアでもしばらくほうっておく。そして、2か月後にまたごそごそ出してきて手を入れて……とまあ、こんなふうにしていたら、2年近くたってしまったというわけ。もうボツにしようと思って自信をなくしているところに、イギリスの出版社の編集者がたずねてきた。私は見せるつもりではなかったんだけれど、どういうわけかダミーが箱からおっこちていてね、かくすまえに見つかっちゃった。彼女はページをめくって、「すばらしい!」といってくれた。それでとても元気づけられて、つぎの週末までには、絵を描きおえることができたんだ。

 いっぽう、『ちいさなくも』のアイデアは、雷に打たれたように思いついたんだ。私はうれしくなって、編集者のパトリシア・ガウチに電話をした。彼女はそれを形にするように、といってくれた。一週間後には、絵を描きおえて出版社に送っていたよ。

コンピュータをつかったことはありますか?

 本の製作にはつかうけれど、絵を描くときはつかわない。絵を描くということは、人類が洞穴に絵を描いていた大昔から、本質的になにもかわっていないんだ。

 最近まで、私はコラージュ(貼り絵)をイラストボードに貼り、その上に透明なシートをかぶせて、文字の書体や大きさやレイアウトを指定していた。それを出版社に送ると、タイポグラファーが文字をセットし、印刷所が印刷していたんだ。

 でもいまは、仕事場に大きなコンピュータをおいていて、デザインの最終仕上げをする段階になったら、アシスタントのモトコといっしょにそのまえにすわる。そしてまず、絵と文章をレイアウトする。それから、文字の形をえらぶ。そうやって一冊すべて──表紙・見返し・とびら・そして本文──の作業がおわると、それをディスクに入れて、出版社に送る。それから印刷される、というわけだ。

 コンピュータで仕事をするようになって、いろいろな可能性があることに気づいたよ。例えば、色をぬった薄紙を、スキャンしてコンピュータにとりこんでおくことができる。そうすれば、コンピュータ上で切ったり貼ったりしてコラージュができるかもしれない。そのときのマウスは、はさみにもなるし、のりにもなるね。例えば鳥を描きたいとき、羽根の部分はNo.33の緑をえらんで、マウスをつかって切りとって貼りつける。くちばしにはNo.30の赤を切りとって貼りつける、というぐあいにやっていくと、鳥ができあがるというわけだ。

 といっても、私はまだまだ昔のやり方で描いているし、コンピュータはつかいなれていない。けれど、とても興味をもっているよ。私にとっては、〈未知なる領域〉だからね。また何年かたったら、おなじ質問をしてみてくれるかな。そのときはもっとこたえられるかもしれないから。

編集者といっしょに仕事をしているって、本当ですか?

 もちろん! 何人もの編集者といっしょに仕事をしてきたよ。編集者というのは、とてもたいせつなんだ。すべての本には、必ず編集者がいる。
 本というのは、作者が読者にお話をとどけるための橋のようなものだ。編集者は、その橋にこわれたところはないか、穴はあいていないか、と調べてくれる人なんだよ。だからときどき、必要に応じて、小さな変更を提案してくれたり、そのままでいこう、といってくれたりする。本のことで自信をなくしたり、迷ったりしているときには、はげましてくれる人でもあるんだ。

 1998年の秋にKlutz Pressから“You Can Make A Collage”という本を出版したとき、編集者であり出版者でもあるジョン・キャシディと、どうやって仕事をしたかをふりかえってみよう。
 これはハウツー本で、私がこれまでにつくったことのないタイプの本だった。私はアイデアを練って、絵を描いて、ダミーをつくって……と、いつもどおりの本づくりをはじめた。すると、ジョンは、ダミーを見て、いろんなアドバイスをくれた。「これはいらないな」とか「こうしてみたら?」とかね。私は、絵本のつくり方は知っていたけれど、ハウツー本のつくり方はよく知らなかった。ジョンは、熟練したハウツー本の作者で編集者だったからね。新しいことを教えてくれたジョンとの仕事は、とっても興味深い経験だったよ。

好きな芸術家はだれですか?

 たくさんいるよ。たとえば、パウル・クレー(1879-1940)。彼はカラフルな、まるで夢のような絵を描く画家だ。それから、ピーター・ブリューゲル(1525-1569)。中央ヨーロッパの農民や風景を描いている。その絵を見ると、自分が育ったドイツのことを思いだすよ。

 ほかにも、すばらしい絵画がたくさんある。ピカソやマティス、レジェやほかのいろんなアーティストのことが知りたくなったら、美術館に行ったり、画集を見たりしてみるといいよ。

きょうだいはいますか? 奥さんは?
お子さんは? ペットは?

 21歳年のはなれた、クリスタという妹がいる。『はらぺこあおむし』は、妹のためにかいた本なんだ。妻はボビー(愛称)というんだ。まえは障害児教育にたずさわっていて、長いあいだ、障害をもつ子どもたちやその親のために働いていたんだよ。子どもはサースティンという娘と、ロルフという息子のふたり。もう大人だ。ふたりとも、絵の勉強をしていたよ。

 いま、ボビーと私は、アニーという灰色の猫を飼っている。ロバータという猫と、トックという名のサモイェード種の白い犬を飼っていたんだけど、数年前に亡くなってしまった。トックというのは、“The Phantom Tollbooth”(Norton Juster作 Jules Feiffer絵)という本に出てくる犬の名前なんだ。作者のノートンとは友だちなんだよ。

好きな色はなんですか?

全部好きだよ。どの色が、というよりも、色の組み合わせがだいじなんだ。

趣味はなんですか?

 つまらなくて申し訳ないけど、仕事が趣味なんだよ。だから、趣味は仕事。仕事場にいないときでも、つぎに描く本のことを考えていたりするからね。

 絵本をつくることは、一生つづけていくだろうな。

いつからひげを生やしているんですか?

 ひげを生やそう、なんて思ったことはいちどもないんだけど……とにかく、いきさつはこうだったんだ。

 1970年代初め、私はマサチューセッツ州北西部に土地を買った。遠くに見える丘をもっとよく見たいと思って、高い松の木によじ登った。すると突然、足もとの枝が折れた。そのまま落ちた私は、背中を強く打ってね、脊椎を痛めてしまった。

 病院では、看護師さんがひげをそってくれるといったんだけど、「退院したら、自分でそるからいいよ」とことわった。

 それから……おわかりのように、退院してもひげをそらなかった、というわけ。
 ちなみに、脊椎は無事なおったから、もうだいじょうぶだよ。

英語以外のことばは話せますか?

 話せるよ! きみたちも、家で話すことばと、学校で話すことばはちがったりするんじゃないかな。私は、英語とドイツ語の2か国語を話せるよ。

 私はニューヨーク州シラキュースで生まれて、6才まで英語を話していた。それから、両親が生まれ育ったドイツにひっこした。すぐにドイツ語を身につけたけれど、英語の方はほとんど忘れてしまった。それを高校でもう一度勉強して、22才でアメリカにもどったから、2か国語が話せるんだよ。

 2か国語を話せると、おもしろいことがあるよ。ときどき、あるドイツ語の単語が頭にうかぶと、英語のいい方がわからなくなってしまうんだ。その逆もある。

 45年以上も、もっぱら英語を話しているので、いまはもう英語で考えたり夢を見たりすることのほうが多い。ドイツ語よりも、英語のほうがうまいんじゃないかな。ドイツを訪れると、自分のドイツ語を生き返らせるために、テレビを何時間か見る。そうすると、また思い出すんだ!

カールさんはアーティストですか?

そうだね。でも、世の中にはいろんなアーティストがいるよ。

 アーティストのなかには、コマーシャル(商業)・アーティストとよばれる人たちがいる。この人たちは広告デザイナーやグラフィック・デザイナーで、お客さんのために働き、製品に絵を描き、そして締め切りがある。私も学校を卒業後、広告デザイナーとして働いていたんだよ。

 また、一方には、純粋な絵描きや彫刻家がいる。この人たちは、したいときにしたいことをする。彼らは通常、商業アーティストと区別するために〈スタジオ・アーティスト〉もしくは〈芸術家〉と呼ばれている。こうした人たちは、自分の芸術に対してはとてもいっしょうけんめいだけれど、お客さんや締め切りはないよね。

 私は絵本作家だから、商業アーティストと芸術家の中間のどこかにいると思う。私には、本という製品があって、読者というお客さんがいる。同時に、純粋な芸術家のように、自分のすきなときに、すきなように本を作ることができる。

 ところで、純粋な芸術家だからといって、作品がすぐれているとはかぎらない。私は、下手な芸術家の作品よりも、すぐれた商業アーティストの作品を選ぶよ。

どうして絵が好きになったんですか?

 ふりかえってみると、私の創造力が育まれたのは、今まで出会ったいろいろな人たちの行動が、なにか不思議な力でうまくかみあったからのようだ。

 私の父は、昔から絵が大好きで、画家をめざしていた。でも、税関吏だった私の祖父は、家族が〈売れない絵描き〉になるのには反対だった。だから、父は市の職員になった。でも、父は絵に対する興味と絵を描きたいという気持ちを失わず、よく私に絵を描いてくれたんだ。とくに動物の絵をね。

 フリッキー先生は、ニューヨーク州シラキュースの小学校1年生のときの担任の先生だ。先生は、私が父からうけついだ絵心をみぬいていた。そして、三者面談のとき、母に「息子さんにはとても絵の才能があるから、それを大切に育ててあげてください」といってくれたんだ。

 クラウス先生は、ドイツのギムナジウム(中学・高校)時代の美術の先生で、すぐに、私が絵を描くのが大好きだということに気がついてくれた。そして、慎重に配慮しながら、私が芸術的才能をのばしていけるようにしむけてくれたんだ。
 私が12か13歳のとき、先生はこっそり、〈禁じられた美術〉の複製画を見せてくれた。それは、当時隆盛をきわめていたナチスが〈退廃芸術家〉とよんだ画家たちの作品だった。また、ドイツ表現主義者や抽象画家の作品もあった。ほんとうはもちろん、〈退廃〉なんかしていない、りっぱな芸術家たちだ。
 この大胆な行動によって、先生は学校をやめさせられるか、あるいはもっとわるい状況におちいる可能性だってあったんだ。クラウス先生の勇気ある行動によって、私はドイツ表現主義や抽象画の美しさに目をひらかれた。
 また、こうしてクラウス先生は、私を信頼しているということを示してくれたんだよ。

 シュナイダー教授は、私が16から20歳までデザインを学んだ美術アカデミーの先生だ。アカデミーでの4年間は、私が絵を勉強してきたなかで、もっとも刺激を受けた時期だった。アカデミーでは、さまざまなルーツや経歴を持つ友達とも出会うことができたしね。ここで、私の芸術的・精神的・文化的な視野が広がった。
 シュナイダー教授が教えてくれたこと、それは、端的にいうと、デザイナーというのは、目に見えるすべてのものを、質が高く趣味のいいものにしあげる責任がある、ということだ。例えば、本のイラストやショッピングセンターの色の配置、コーヒーカップの形、ポスターデザイン、文字の書体などをね。

子どものころ、らくがきはしましたか?

 子どものときだけじゃなくて、いまもやっているよ!

 ものごころついたときから絵を描くのが大好きだったし、自分はずっと絵を描いていくだろうと思っていた。
「大きくなったら、なにになりたい?」と聞かれる年齢になったときには、「絵を描きたい」「アーティストになりたい」「らくがきやさんになりたい」といっていたよ。
 えんぴつや絵の具やクレヨンや紙をつかってなにかするのは、とっても楽しいことなんだ。らくがきは、やめられないね。

いつ、絵本作家になろうってきめたんですか?

 私は、グラフィックデザイナーとしてはたらきはじめた。その後、広告代理店のアートディレクターになった。1960年代のなかばごろ、私がロブスターを描いてデザインした広告を見たビル・マーチンから、『くまさんくまさんなにみてるの?』のイラストを描いてくれないかとたのまれた。なんて刺激的な本なんだろう、と思った。小学校時代の、大きな紙やカラフルな色、太い筆なんかの思い出がよみがえってきた。私のなかの眠っていた部分に火がついたんだ。
 最終的に、本のおもしろさを子どもたちにつたえるという、とてもすばらしい経験ができた。これは、私の人生を変えるできごとだった。

 それから、私は、絵を描いているだけでは満足できないということに気がついた。お話も書きたいと思うようになっていたんだ。そこで、アイデアをまとめた簡単な本をつくって、小さいダンボール箱にためていった。
 昔の料理をあつめた本のさし絵をたのまれて描いていたとき、編集者がその箱の話をききつけて、見せてほしいとやってきた。そのとき見せたのが、『1,2,3どうぶつえんへ』だった。
 それから、私は彼女に、虫がページを食べて穴をあけていく、というお話を見せた。でも、その編集者アン・ベネデュースは、主人公がただの虫ということに、あまりピンときていないようだった。「べつの生きものがいいんじゃないかしら。あおむしはどう?」といったんだ。私は思わずさけんだ。「ちょうだ!」
 こんなふうにして、『はらぺこあおむし』は生まれた。
 とくに努力をしたわけでもなく、気がついたら、私は子どもの本の画家であり、作者にもなっていたんだよ。

アーティストじゃなかったら、なにになっていたと思いますか?

 子どものころ、ほんの短いあいだだけれど、森番になりたい時期があった。日曜日になると、父とよく森にでかけていたんだ。そのころ、私たちはドイツにすんでいて、よくその人の家の前を通っていた。家は、木々にうもれるように立っていて、まわりには花や野菜の大きな畑があり、柵にかこまれていた。「森の住人になって、こんな美しい家にすむのって、いいと思わないかい?」父はそういって、この家にやってくるだろうシカやキツネやウサギやフクロウのことを話してくれた。
 私の想像は広がりはじめ、森番になって、こんな人里はなれた妖精の世界にすんでみたいと思うようになった。
 でもすぐに、最初の夢にもどったけれどね。つまり、絵描きになることに。

 大人になってからは、シェフになるのを夢見たこともある。すばらしいレストランで、思わずよだれが出るような、おいしい料理を考えだすんだ! 白いコック帽をかぶって、アシスタントに指示をあたえる。何度も、深なべや平なべに指を入れては、創作料理の味見をする──。

 あこがれというのは、実現しない何かだ。あれこれ思いめぐらすからこそ、あこがれなんだよ。

日本のもので、インスピレーションを受けたものはありますか?

 日本文化からは、たくさんインスピレーションをもらっているよ。和紙、陶器、布など、手作り品の美しいデザインにはとても刺激を受けるし、日本の建築、食、芸術の繊細な感覚も気に入っている。2017年4月の訪日で特に心にのこったのは、東京にある美しい手作りの紙のお店を訪ねたときのことだ。私は、紙の作家が行っていた美しい染めの技術にとても感銘を受けたんだ。

 私は、自分が色をつけた紙のデザインそのものが好きだ。絵本の中でどのように使うかは考えずに、薄紙に色をぬっていく。薄紙をさわった感触やテクスチャー、透明感が大好きで、色をぬった紙そのものが芸術作品だと思っているよ。

レオ・レオニさんとの思い出はありますか?

 レオ・レオニは、私の人生の扉をあけてくれた人たちのうちの一人だよ。ドイツからアメリカにもどったばかりの22歳の私に、彼はとてもよくしてくれた。そのとき、私の所持金はたった40ドル。レオニは、ニューヨーク・タイムズ紙に就職する手助けをしてくれたよ。
 彼の作品は、独特で独創的なスタイルと方法をとっている。私の作品とおなじように、コラージュの手法もつかっているよね。
 初めてニューヨークに着いたとき、自分の作品集以外にはほとんどなにも持っていなかった私に、彼はやさしさとはげましをあたえてくれた。ほんとうにいい思い出だよ。

いままで描いてきた本のなかで、いちばん好きなものはなんですか?

ね、ぼくのともだちになって!』だね。  理由は、友情についての本だから。

カールさんの本には、どうして小さい生きものがよく出てくるんですか?

 子どものころ、父はよく、草原や林につれていってくれた。そして、石をもちあげたり、木の皮をはがしたりして、ちょこちょこ動く小さな生きものたちを見せてくれたんだ。いろんな生きものたちの生態をおしえてくれたあと、父は、彼らを注意深くもとの場所にもどしていた。
 本の中に小さな生きものたちを描くことで、私は、父への尊敬の思いをあらわしているんだと思う。そして、自分自身の幸せな子ども時代を再現しているんだ。

くもの巣や、鳴いたり光ったりするしかけは、どうやって作られているんですか?

『くもさん おへんじどうしたの』のくもの巣について

 名刺や文房具で、文字の部分がもりあがっているものをみたことはある? 『くもさんおへんじどうしたの』のくもの巣は、それとおなじしかけだよ。これは、隆起印刷という印刷方法だ。プラスチックの物質を混ぜたインクでくもの巣を紙に印刷し、それを加熱するんだ。熱をくわえることによって、くもの巣がもりあがって固くなるんだよ。


『だんまりこおろぎ』の鳴くしかけについて

 『だんまりこおろぎ』は、裏表紙にコンピュータチップがくみこんである。見た目ではわからないけれど、注意ぶかくさわってみるとわかるよ。カメラなんかにつかわれている小さな電池が入っていて、鳴くしかけになっている。鳴き声はコンピュータチップから出るんだ。


『さびしがりやのほたる』の光るしかけについて

 似たようなコンピュータチップが、『さびしがりやのほたる』の裏表紙にも入っている。小さな電池が、小道のように配線された電気回路に電気を送り、ほたるの光る部分についた電球にとどく。こうして、夏にしか見られないほたるを、最後のページでいつも見ることができるんだ。電池が切れたら、交換することもできるよ。


 考えてもごらん。1440年ごろにグーテンベルグが印刷技術を発明して以来、本は人びとの身のまわりにある。それまでは、本は手書きで写していた。『くもさんおへんじどうしたの』『だんまりこおろぎ』『さびしがりやのほたる』は、コンピュータチップやプラスチックのおかげで、とても現代的な本になった。昔の技術と現代の技術がいっしょになって、魔法みたいなことができたんだ。これはすごいことだね。

『とうさんはタツノオトシゴ』が、ほかのカールさんの本とちょっとちがうのはなぜですか。

 きみたちのなかには、『とうさんはタツノオトシゴ』のやわらかい色づかいや質感が、いつもの私の本とちがうな、と気づいてくれる人がいるかもしれないね。
 私はいつも、薄紙のシート全体に色をつけてから形を切りとるんだけれど、この本の場合は、最初にタツノオトシゴの形を切りとって、それから色をぬった。いつもとやり方を変えたんだ。なぜなら、タツノオトシゴを、みんな同じ形にして同じように彩色しなければならなかったからね。

 ある熱心な読者が最近手紙をくれて、「なぜヨウジウオの後ろに透明シートがないんですか? お話のパターンがくずれてしまいますけれど。」と聞いてきた。
 この本を作っているとき、ヨウジウオの後ろに透明シートをつけることは考えていなかった。私が物事を決めるときによくやるように、半分意識的に、半分直感的にしたことだった。
 もう1枚透明シートを入れると、製本の段階でうまくいかなくなるのがわかっていたということもあるけれど、そうしたのは、単に技術的な問題だけじゃないんだ。
 私はよく、本の後半で、わざとリズムや話のペースを変える。それは、読者に、お話がおしまいに近づいてきましたよ、と伝えるためなんだ。
とうさんはタツノオトシゴ』の場合、5枚目の透明シートがないことによって、効果的にお話のパターンやリズムを変えることができたんじゃないかと思っているよ。

カールさんのポスターやリトグラフを買いたいのですが。

 マサチューセッツ州アマーストにあるエリック・カール絵本美術館を、ぜひ訪れてください。ポスターやリトグラフを買うことができます。 もちろん、美術館のオンラインストアでも買うことができるので、見てみてね。

家族のために描いた絵本はありますか?

 私が小さな子どもたちのために本を作りはじめたとき、わがやの子どもたちはもう読者の年齢より大きくなってしまっていた。けれど私は、本のめだたないところに、わが子や家族、友だちのイニシャルを、敬意をあらわす意味で入れているよ。
 『やどかりのおひっこし』は息子に、『パパ、お月さまとって!』は娘にささげた絵本なんだ。