かみなりのあと、停電で家の中がまっ暗になりました。おとうさんがろうそくに火を灯したとき、マックスはたずねました。「おとうさん、こわいとおもったことある?」「だれでもこわいっておもうことはあるよ」と、おとうさんは、いくつもの「こわい」について話してくれました。知らないことをこわいって感じたり、激しい言葉がつきささっておびえることもある、どうしようもなくこわくなったり、自由になるのがこわいこともある、かたいからを身につけて、こわくないふりをしている人もいる……でも、おとうさんは、最後にマックスに希望を伝えてくれます。「こわい」についての分析、解説もあります。「こわい」について改めて考えてみることで、「こわい」を受け入れることができるようになるかもしれません。
同じ著者たちによる『どうして なくの?』があります。
▶︎日本のみなさんへ
◎作者 フラン・ピンタデーラさんからのメッセージ
ぼくの家のリビングには大きな窓があり、そのむこうには三本のレモンの木がみえます。いまちょうどたくさん実がついて、枝にはセキレイやジョウビタキなど小鳥たちがとまっています。
夜になると、小鳥たちはねむるために木にやってきます。ピッピチッチとさえずり、羽をパタパタさせて、夜をおそれることなく、おやすみなさいといいあってねむりにつくのです。そして朝の光がさしこむと、鳥たちはふたたびさえずり、羽ばたきます。そんな光景が、ぼくの家の窓からみえます。
自然は偉大な先生であるのに、不思議と何かを教えようとしているわけではないのだと、あるときぼくは学びました。ただ、あるがままなのです。自然は≪こわい≫を知りません。夜も昼もおそれない。自然は生きていて、さまざまな危険をふくみ警告します。でも、おそれることはないのです。
地中海のぼくの家のリビングで感じるこわいと、日本のどこかでくらすきみの家のリビングで感じるこわいは似たようなものです。ちがうのは、せいぜい≪こわい≫の感じかたや呼びかたぐらい。けれど、それぞれの言葉の裏にやどっている≪こわい≫の本質はおなじものです。それは、ぼくらが目をとじて、ふみつけ追いはらいたいと思っている≪こわい≫です。夜明けの空、翼をはためかせながら≪こわい≫の上をとんでいきたいと、ぼくらは願っているのです。
◎画家 アナ・センデルさんからのメッセージ
わたしの《こわい》ものリストはながくて、ハシゴの階段にたとえたら、ぐんぐんのびて月までたどりつくかもしれません。月までのぼったら、こわいけれど散歩してみたいな。月に行くなんてなかなかないし、知らないなにかに会えるかもしれない。
心ゆくまであるいたら、月の岩にすわって、こんどは《こわくない》リストをかくでしょう。リストのながさは限りなく、ながいながいすべり台になって、つるつるとすべりながら地球へもどるでしょう。はじめはこわくても、きっとすべりだします。だって月はとてもさむくて、家にコートをおいてきてしまったから。
そして、茶いろのふわふわの上にすべり落ちるでしょう。なんと、それは茶いろのクマで、ガオーっておこられるかもしれない。わたしはこわくてたまらず、リスのようにすばしっこく木から木へとびうつって、家にかえります。
家についてほっとしたら、アボカドサンドをつくって、庭で月をながめながらたべよう。
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