吹雪の夜、急行列車は北極ちかくの地に向かう。そこへ、数匹の白熊が乗りこんできた。陰影の美しい色調が印象的な宮沢賢治作品。
1896年岩手県花巻市に生まれる。盛岡高等農林学校農芸化学科卒業。十代の頃から短歌を書き始め、その後、農業研究家、農村指導者として活動しつつ文芸の道を志し、詩・童話へとその領域を広げながら創作を続けた。1924年に詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』を事実上の自費で出版するが、彼の作品のほとんどは、没後に高く評価された。1933年に37歳で病没。
1966年、東京生まれ。国際基督教大学教養学部生物科卒業後、渡米。Art Center College of Design 卒。1992年に帰国後、フリーのイラストレーターとして国内外の絵本、装画、挿絵、広告を多数手がける。主な仕事に、朝日新聞朝刊連載小説『新・地底旅行』挿絵(奥泉光・作)、漫画『チキュウズィン』(自作)、絵本『ミサコの被爆ピアノ』(松谷みよこ・作)、英国ロイヤルメールのクリスマス切手など。ボローニャ国際絵本原画展、アメリカン・イラストレーション年鑑等入選。2005年講談社出版文化賞さしえ賞受賞。
★刊行時に寄せられたメッセージです
この絵本の絵は1993年頃に描いたものです。
もともとは、冨山房という出版社から宮沢賢治の絵本シリーズのうちの一冊を描かないかと依頼され、制作したものでした。とても知名度の低いお話を選んで描いた作品は、絵本としてもまた知名度の低いものになって、けっきょく在庫の大部分がひっそりと出版社の倉庫に眠ったまま、ずいぶん経ってしまったというわけです。
当時、僕はアメリカの美大から帰国して間もないころで、光彩と陰翳に富んだ重厚な油彩画を描くことに生きていました。そんな僕が、数ある宮沢賢治の著作のなかから、どれを絵本に仕立てようかと考えたときに、何故このお話を選んだのか。それはとりもなおさず、知名度が低くあまり絵本化されていなかったからにほかならないのですが、もう少しいえば、じつは重厚な油彩のタッチで描くのが難しい、擬人化の多い作品を除けていったら、これが残ったのです。
白熊ばかりは、モデルを頼むわけにはいきませんでしたが、それ以外の登場人物はなるべく家族や知人にポーズをとってもらい、照明を当てて撮影しました。油彩だけでなくデジタルで制作するようになった今でも、このようにして参考資料を得ることは少なくありません。
ちなみに最後のページの屹立した氷山は、どこか普通でない雰囲気の姿を描きたいと思って、海の色がきれいに映り込むように、碧く染めた布を粘土の上に敷き、そこにコンビニで買ってきたロックアイスをさし並べて撮影したものです。ぴかぴかに光る銀色のピストルは、おもちゃ屋へ行ってモデルガンを買ってきました。
極北の都市ベーリング行きの急行列車のなかで、何枚も毛皮の外套を着こんだタイチと乗客が巻きおこすドラマ。ぜひ手にとってご覧ください。(木内達朗)