取材日記

ヘクター・ピーターソン博物館へ

2014/10/06

『南アフリカ共和国』の船尾修さんによる取材日記、2回目です。シフィウェとおばあちゃんといっしょに、アパルトヘイトの博物館である「へクタ—・ピーターソン博物館」を訪れました。アパルトヘイト時代のものごとは、シフィウェの目にはどううつるのでしょうか。(船尾さんの取材日記、1回目はこちらです)

南アフリカ共和国ではほんの20年ほど前まで、アパルトヘイトとよばれる政策が実施されていました。日本では人種隔離政策として知られています。黒人は白人と結婚することができず、黒人は白人の居住区には住むことを許されず、列車の切符を買うのも違う窓口。公衆トイレや海のビーチまで、はっきりと黒人用、白人用が区別されていました。
金やダイヤモンドなどの鉱物資源の発見があいついだことからこの国は発展してきましたが、そういった富を白人が独占するために、黒人を単なる労働力として位置づけようとアパルトヘイトが考え出されてきたのです。シフィウェが暮らすソウェトはSOWETOと表示されるのですが、これはSouth West Townshipの略です。Townshipとは、黒人居住区のこと。南アフリカ最大の都市ヨハネスブルグから見て南西に位置する、かつての黒人居住区がソウェトなのです。

アパルトヘイトが撤廃されたので、現在では人種や民族に関係なく自由に往来・居住できることになっています。黒人の初代大統領に選出されたネルソン・マンデラは新生・南アフリカ共和国の理念を表すのに「虹の国」といいました。7色の虹のように全人種が参加しての国づくりを目指したのです。しかし、実際には人種を差別する法律はなくなったものの、黒人と白人は交わらずに暮らしているのが実情です。ソウェトに住んでいる白人はほとんどいません。

シフィウェの家に居候している間、アパルトヘイトというものが実際の黒人家庭の中でどのような影響を与えていたのかを知りたくて、あれこれたずねてみました。当時のことが記憶にあるのは、年齢的におばあさんのジョイスだけでしたが、ソウェトで暮らしていると白人と関わりを持つことは皆無なため、差別を意識することは現実にはあまりなかったようです。しかし、1976年に「ソウェト蜂起」とよばれるたくさんの死傷者が出た衝突事件がおきたのですが、そのときは上空を軍のヘリコプターが飛び交い、騒然とした雰囲気だったのを覚えているそうです。シフィウェはソウェト蜂起のことを、「学校で習ったような……」と頼りない答え。

それである休日、ジョイスとシフィウェを誘って、ソウェト内にあるヘクター・ピーターソン博物館へ見学に行くことにしました。アパルトヘイト時代のことがまとまっている博物館です。博物館の名前となっているヘクター・ピーターソンは、ソウェト蜂起の際に白人警官に射殺された中学生です。まだ13歳でした。当時、白人政権は白人の言葉であるアフリカーンス語を必修科目にしましたが、これにソウェトの学生たちが反発してデモが起きました。その鎮圧のために警官隊が導入されたのです。世界中の国々による批判が巻き起こって、その後白人政権は追い込まれ、根強い反対運動の末にやがてアパルトヘイトは撤廃へ向かいます。

そういう意味ではソウェトという街は時代の流れをずっと見つめてきたわけです。この本を著すにあたって、現在も南アフリカ共和国に多大な禍根を残すアパルトヘイトの時代について触れないわけにはいきません。私は一計を案じて、シフィウェの家族がどのような反応を示すのだろうと思い、ヘクター・ピーターソン博物館を訪れることにしたのです。家族の中でこれまで博物館を訪れた人はいませんでした。

博物館には当時の様子を伝える資料や写真がたくさん展示されています。ヘクター少年が警官隊に撃たれた直後、友人が彼を抱きかかえて走る写真が大伸ばしにされています。ヘクターの姉が泣きながらつきそうこのショッキングな映像は、ソウェトで何が起きているのかを世界中に伝える役目を担いました。シフィウェも自分と年齢がそう違わない少年が犠牲になったことに何か感じることがあったのでしょう、しばらくじっと写真に見入っていました。

ただ自分が生まれるずっと前に起きたことなので、さほどリアリティは感じないのか、アパルトヘイトの歴史についての説明文などは退屈そうでした。歴史については学校の授業でもくりかえし学ぶそうですから、小学生にとってあらためて興味をかきたてるようなものではないのでしょう。シフィウェはむしろ見学に来ていた欧米人の旅行者や、ぴかぴかに磨き上げられたトイレに興味津々の様子でした。シフィウェの自宅裏にあるトイレには便座が付いていませんし、水を流すのも自分でバケツにくんで使います。またトイレットペーパーではなく新聞紙を切って使っています。だから目新しいぴかぴかのトイレに何度も座って遊んでいました。

その後、ネルソン・マンデラさんが暮らしていた住居を見に行きました。ここは往時の様子をとどめる自宅がそのまま博物館として公開されているのです。アパルトヘイト反対運動のリーダーであり、獄中から解放されて大統領になったこの国の英雄の住んでいた場所をひと目見ようと、たくさんの黒人の観光客が訪れていました。道路を挟んで歩いて数分のところには、同じくアパルトヘイト反対運動に尽力したデズモンド・ツツ元大司教の住居もあります。この道路の名称は「ヴィラカジ通り」というのですが、ふたりのノーベル賞受賞者を輩出した通りとして最近ではよく知られるようになってきました。

観光客向けのレストランが数軒できていました。10年前に来たときにはまだ何もなかったのですが。ちょうどお腹もすいていたので1軒の店に入りましたが、客は欧米人とお金持ち風の黒人観光客ばかりで、シフィウェもジョイスも少し居心地が悪そうでした。ふたりが暮らしている地域には徒歩圏内にレストランとよべるような店はありません。スパザとよばれる小さな雑貨屋と、シェビーンという酒場ぐらいなものです。治安が悪いのでスパザには強盗よけの金網が張られていることが多く、腕一本しか通らない小さな穴からお金と商品を交換します。シェビーンでは主にビールを出しますが、料理を出すことはありません。昼間から酔っぱらいがたむろしたりしています。

家に帰りつくと、すぐにシフィウェは弟たちと連れ立ってプールに出かけて行きました。博物館への小旅行は勉強の延長みたいで少々退屈だったのかもしれません。水泳やサッカーの方がよほど楽しいに決まっていますから。

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船尾 修

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1960年神戸生まれ。筑波大学生物学類卒業後にアフリカ大陸を4年間放浪したことがきっかけで写真家・文筆家の道へ。[地球と人間の関係性]をテーマに、民族や文化の多様性について取材を続けている。2001年に移住した大分・国東半島の神仏習合文化をとらえた写真集『カミサマホトケサマ』で第9回さがみはら写真新人賞を受賞。その他著書に、『アフリカ豊饒と混沌の大陸(全2巻)』『UJAMAA』『循環と共存の森から』など多数。

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